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千利休
政治や武家に通じ、今に至る茶道を大成した千利休は今年が生誕500年になる。多方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引きつける「茶聖」の魅力に迫る。
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「その日、京都は雷鳴がとどろき、雹(ひょう)が降った」。天正19(1591)年2月28日、天下統一を果たした豊臣秀吉に仕え、茶の湯を究めた千利休が、切腹して果てた。享年70。堺の商家に生まれ、安土桃山時代の武将・織田信長、秀吉の側近として政治的にも絶大な存在感を示したが、秀吉の怒りに触れたという。
鎌倉時代に中国から伝わった茶に禅の心を取り入れ、質素な道具立ての中に美を見いだして「わび茶」を大成させた利休。精神世界に落とし込んだ茶の湯は、表千家、裏千家、武者小路千家が利休を祖として受け継いでいる。
大徳寺の山門「金毛閣」=京都市北区(渡辺恭晃撮影)
秀吉のもとで、床の間や壁などすべてを金で飾った「黄金の茶室」をしつらえたことで知られ、茶の世界では名だたる戦国武将の師でもあった。波乱の人生は映画やドラマにもなった。映画「利休にたずねよ」(平成25年)は歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが利休を演じ、話題を集めた。
「利休は魅力にあふれた人物だからこそ、弟子たちが記録に残した。そして伝説化していった」と語るのは、茶の歴史に詳しいMIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)の熊倉功夫(いさお)館長。「なかでも切腹については謎が多い」
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活躍していた利休の運命は一夜にして暗転する。天正19年2月13日、秀吉から堺へ蟄居(ちっきょ)を命じられ、京都から追放。26日に再び京都に護送され、28日に切腹。首は一条戻り橋にさらされた。
切腹の理由は諸説ある。側近の立場を利用して茶器の売買で不当に巨利を得た▽秀吉から娘を側室として求められたが断った-。
最も有名なのが、天正17年12月に京都・大徳寺山門の上層にまつられた利休像だ。参拝の際に雪駄履(せったば)きの利休像の下をくぐることになり、不遜極まりないと問題視された。
熊倉さんは背景に、秀吉子飼いの武将・石田三成の政治的思惑があったとみる。利休が切腹を命じられる前月の19年1月、秀吉の弟で利休の理解者だった秀長が死去した。「これを機に利休を取り巻く状況が一変した」という。
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秀長がいかに利休を重んじたかを示す史料がある。大名・大友宗麟(そうりん)に対する秀長の言葉だ。「内々の儀は宗易(そうえき)、公儀の事は宰相存じ候(内々のことは利休、表向きのことは私に相談するように)」(大友家文書録)。秀吉のもと、利休は秀長と並ぶ権力を握った。
「秀長の死でいち早く動いたのが三成。利休を排斥して地位を固めようと、1年以上も前の利休像の一件を持ち出して秀吉に讒言(ざんげん)した」と熊倉さんは指摘する。
大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長は、切腹を命じた秀吉の心境に迫る。「利休は信長時代からの茶の師であり、秀吉にとって耳の痛いことも言う煙たい存在だった」とし、現代社会に置き換えた。「2代目社長が、創業者を支えた人物を疎ましく感じるのと同じなんです」
それでも謎は残る。なぜ秀吉は死まで求め、利休はそれを受け入れたのか。
覚悟の一服 守り抜いた信念
茶の湯を通じて豊臣秀吉の側近となりながら、切腹を命じられた千利休。死を前にして、いっさい釈明をしなかったという。そのときの心境が今に伝わる。
南宗寺にたたずむ千利休の供養塔。「利休」の文字が刻まれている=堺市堺区(前川純一郎撮影)
千利休の供養塔=堺市堺区の南宗寺
「人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這宝剣(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつぐせつ) 提(ひっさぐ)ル我得具足(わがえぐそく)の一太刀(ひとつたち) 今此時(いまこのとき)ぞ天に抛(なげうつ)」
「利休のすさまじい覚悟が込められている」とMIHO MUSEUMの熊倉功夫館長は言う。「『わが宝剣で仏も一切がっさいを斬り捨て、残った太刀も天に投げうった』との言葉は、この世に未練も何もない。来世で幸せにとの願いもなかった」と説く。
利休が死を賭してでも守ろうとしたものは-。
秀吉の懐刀でキリシタン大名の高山右近が、秀吉から信仰を捨てることを迫られた。利休に相談し、「信仰を捨てるべきでしょうか」と話すと、「それならあなたの茶は飲めない」と答えたという。
「切腹を命じられた利休は、謝罪をして生き永らえても、人々から『利休の茶は飲めない』と言われるのを恐れたのではないか」と熊倉さん。「茶の湯はまさに命をかけたものだった」
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利休の墓は京都・大徳寺の聚光院(じゅこういん)にあり、生まれ故郷の堺には、かつて修行をした南宗寺(なんしゅうじ)に供養塔がひっそりたたずむ。「利休は南宗寺で修行をした経験を茶の湯に生かした」と同寺の田島碩應(せきおう)住職は話す。
利休の茶は、神聖な茶室に入る前に身を清めることから始まる。手水(ちょうず)鉢で手を洗い口をすすぐ。利休も茶杓(ちゃしゃく)や茶碗(ちゃわん)を浄(きよ)め、茶室に香をたいて花をいけ、客を迎えた。「まさに仏の世界。利休が茶の湯に込めた思いはこれしかないんです」
利休は、小田原攻めなど戦場でも武将にお茶を振る舞った。「一服点てることで、彼らを無の境地に、そして仏にしようとした。だからこそ武将たちは利休に心服し、人を動かす政治力にもなった。秀吉はこれを妬んだんでしょう」
理不尽ともいえる切腹を命じられながら、潔く受け入れた利休は、後の世まで人々の心を揺さぶった。
2022-10-11 10:13:05
日本の伝統文化を未来へ残したい
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